★きらら 自分から出る声を聴こう ★

2014年5月5日月曜日

びじねすらいく

今に仕事を統合していく。

使えるツールはすべて使い倒す。

原点に帰り、目的をもう一度見直す。

自分らしさを表現し、それを分かち、共に自分は人生の主人公だとごとばと行動でしていく。

 => それに加えて、周囲のまた何かに依存して堕ちていく人から自分を守り抜く

アセンションして、自分の望みがかなり加速してできる。その反面、他人もそうなのだ。

もう一度、引き寄席の法則を思い出そう。

ジョークになっていく。

自分を許し、許容する。

どうなるか。

自分の勘違いや人からされて嫌でも麻痺していたことを肯定する。

何かの中毒になっていて、物事と繋がるときに感じる、セクシュアリティーチャクラ(下から二つめ)

が麻痺すると、ぼくはネット中毒だと取る。

リアルとインターネットは違う。

また、意識されて、アクセスが来るが(友達になるとか)

リアルの友人と比較すると、リアルの友人は相当な年数の付き合いがあり、どついきあいすらある。

ネットの友人は会ったこともない。

プロフィールとか投稿を見ることになるけど、信頼するかどうかの基準にならない。

単に情報だと割り切る。(失礼は承知だが、ネットでトラブルになることは過去にたくさんあったので。投稿系サイトで、ぼくは自称精神科医にいじめを受けたのだ)

また、フェイスブックで仕事のやりとりはしたくない。

当たり前だろう。このツールは元は何だったか。ある大学の相互デーと情報公開を目的とした、

セックス相手を探すためのツールなのだ。今も同じニュアンスがある。

ちゃんと固定したセックスパートナーがいるのに、それでも探す連中にどつきを入れたい。

セックス依存症だろう。これは治る。だが、自分にオナニー中毒を断つ決断が出きるかどうかだが。

俺はした。かなりの戦いを10年したのだ。そうして、やっと自分と相手の性欲をわけることできた。

性欲は大切だが、みじかな物であるが故に崇拝しやすい。依存しやすい。

距離を取る。関係を斬る。可能だ。衝動が来たら感じること。感じながら創作とかすればいい。

創作は性エネルギーを燃料とするから。そうして、自在に衝動を遊べるようになる。

 それを昇華という。保健体育にあったろう。俺は2010年の誕生日の朝にオナニーして気づいた。

 なんだ。自力で断てる。1日断ってみた。簡単にできたのだ。

 自信がわく。もう、オナニー中毒でない。楽しめる。中毒の時はそれ自体に楽しみが無い。

 行為を脅迫的にしていて、信条がある。しないと生きていけないである。

 断つことができて(1日でいい) 自分の衝動を感じて、素直にセクシャリティードライブだと捉えた。

これがパワーであり、ドライブエンジンなのだ。