★きらら 自分から出る声を聴こう ★
2014年3月7日金曜日
一歩 初のデンプシー・ロール
いきることがせんそだと。
おれはだれかれにいわれたな。
ほんとうかい?
自分の中の話をおれにして、
俺を壊したあなたはだれなんだい?
それは過去の話。もう戦争なんてない。
自分を生きて、その反動のはねっかりはあっても、
それは人の反応であって、戦争ではないです。
続けると・・・
なんかかんかあるけど、
それでも通るための道を見つける。
それは恐らく、同じように格闘した人が示した道だ。
ありがとう。
俺も行くよ。
自己表現いえーい><。
きちがいいえーい。
思うままに描く。淡々と手作業だ。それが素朴なライブだ。
かっこつけようが続けると色気が無くなる。あるものか。ガキなのだから。
幼稚園でショックだったこと。
母に連れていかれ、そのまま置いておかれ、まるでいらないこのようにされたことだよ。
おうちに帰ることができるか?ものすごく悩んだ。そのまえに、この時の母を俺は怖がっていた><。
あまりにも不安定で、死にそうにしんどうそうな母をだ。帰りが私立の幼稚園だけに(両親の見栄なのだ))、
バスで帰るけど、なんのために行くのか疑問を抱きながらの帰還だった。
帰りのバス。仲間はなんかかんかしていたかな?もの記憶がない。
なんで? おれを? 捨てたいのか? 幼い俺は一生懸命に理由を考えた。
子育てに悩んでいたのかもしれない。俺がひきこもりがちであり、図鑑とにらめっこするし、
”男の子らしくない ”<=母から見てだ
図鑑を見て、何かを真似て描く俺って・・・ 母親は混乱したのかもしれない。
もちろん、外に出て遊ぶことはあったし、砂場で牛乳瓶に砂と水を入れて、”コーヒー牛乳”を制作していた。
不思議と楽しみよりも企業だなと、そんな感じの体感があった。
自分なりに”しゃちょうごっこ”していたらしい><。
何か人と違うことをする。そんな怒りが俺にあった。ソースは父親だ!!!
父はなんか人と違うことをする。ふーん。それがいいのかな?
母は人と同じことをしなさいみたな説教を垂れる。俺の中で両親の教育バトルがあったのさ。
自由人vs自分=皆 そんな葛藤がまだ出る。
父と母の家庭背景が激突。 なんで、こんな結婚ができたのか? 今になると、この対立している背景が、うまくリンクして動いている。わお!だ。
お金にかかわることだったのだ。俺が一生懸命に時間を費やした研究をわかりやすく母に話してきた。時間にして7年。
やっと、父も母も一緒に経理をするようになった。どんぶり勘定を改める動きになった。
俺自身もこのどんぶり勘定になりやすい。封筒におおざっぱにわけるけど、無断で(誰にだろう?)
買い物に行くときにはペナルティーがある。 最低限の費用で今できる選択で遊びの費用を使うことだ。
お金は減る。総量が減る。ごはん代が無くなる。その中で健全な遊びの選択を罰とする。
遊ばないのはよくないが、費用をちゃんと計算して出す遊びを自分に課す。
かなりの負担になるし(心が)。だが、思い切ってその”自己破産ぷれい”をすると、
また、母の実家の文化が壊れる。母というよりも母の実家の文化がだらしない管理主義だったのだ。
うちの母の口癖は(最近は減った) 「うちは貧乏だ」
本当の貧乏は使えるお金が30円で、一週間を乗り切って俺は知ったけど。
パンの耳作戦。 知らないおばあさんになすをおくれさくせん。いづれも直接交渉だった。
10円でパンの耳を得たり、日ごろ、たまに見かけたおばあさんに、頭を下げて、
「なすを分けてください。料理したいの。」 (さすがに、相手は怖がったけど、事情を察してくれた)
=>2004年の8月のはなし。
この体験自体はトラウマだよ。それくらいに、生活感覚が荒廃していて、生きる体感が妄想的だったのだ。
その後、両親と知り合いの以前に世話になった、俺の家事の先生が来て、
「生活保護に入れ! お前はもう改心しないと先が無いぞ。」
と、どういうコネで交渉したかは謎(2012年に持病で他界されました))
その後、両親と自分とこの先生と役場にいき、その前に家賃だけもらってきてくれた。
本当にまずい状態だった。 今でもなんか怖い体験を無感覚で通過したなと。
その体験自体も癒さないといけない。
今はこう書いて皆さんに晒すことで馬鹿なことをしているけど、
恥をさらして、さらに誰かに知られるのはぼくの中の祈りの気持ちを知ってほしいの。
安易に入るとのことははっきりいって今入って苦しんでいる人と、行政にものすごい負担なの。
毎回、お金をもらうときにそんな空気がある。俺もその空気で気がおかしくなる。いくら、散歩で鍛えた体も、耐え難きを耐えに耐えるのは困難になっているの。
この単語が俺はがっこで読んでショックでした。それくらいに戦争の時はそうだったのでしょう。
ね。俺は受けた教育で読み書きができる。また、人に伝える勇気を奮える。だけど・・・
知ってほしいの。苦しくなると、働かないでお金が欲しいとなるの。
それは俺もあった。借金地獄からもがき、そんな夢想をした。
でもね、実際は人と関わることで得るものなの。信頼と何らかの身元保証がいるの。
うちの父はまじめすぎるまじめで、大変な額の返済を遂げつつあったことと、家族にまじめすぎたゆえに、
そして、今になって書くけど、事実上、後見人になってくれた、先生とがそろって、
俺は受けることができた。
そんな援助があってこそ受けれた。燃え尽きていたあの当時はわけがわからない感じでした。
なんで、働かないでお金が来るのか?
3年くらい経って、やっと生活保護を受けたと感じるようになった。
借金地獄と両親の経済面の余裕のなさは、生きる実感とお金をちゃんと使う、管理する感覚を壊していたんだ。
今でもそのトラウマはある。計画してお金を数え、予算を組むときに。
毎日、癖で日割り計算をする。
これは入院中に覚えた。
トラウマです。自己管理のトラウマ。
なんでもかんでも自分。
それはやりすぎると認知症になる。
だから、俺は無理にでも電話する。
一人暮らしは自分で自分をあやめる考えが出て、変におかしくなることがある。
だから、そのためのものは持ったほうがいい。
俺が散歩を自分に矯正した背景は、無理に這い出て、ひきこもりで死にそうになったあの恐怖を、
その中で計算して、スーパーの閉まる直前の安い弁当を何とか選んでレジを通り、その弁当で生き返った体験が大きい。
それでも通るための道を見つける。
それは恐らく、同じように格闘した人が示した道だ。
ありがとう。
俺も行くよ。
自己表現いえーい><。
きちがいいえーい。
思うままに描く。淡々と手作業だ。それが素朴なライブだ。
かっこつけようが続けると色気が無くなる。あるものか。ガキなのだから。
幼稚園でショックだったこと。
母に連れていかれ、そのまま置いておかれ、まるでいらないこのようにされたことだよ。
おうちに帰ることができるか?ものすごく悩んだ。そのまえに、この時の母を俺は怖がっていた><。
あまりにも不安定で、死にそうにしんどうそうな母をだ。帰りが私立の幼稚園だけに(両親の見栄なのだ))、
バスで帰るけど、なんのために行くのか疑問を抱きながらの帰還だった。
帰りのバス。仲間はなんかかんかしていたかな?もの記憶がない。
なんで? おれを? 捨てたいのか? 幼い俺は一生懸命に理由を考えた。
子育てに悩んでいたのかもしれない。俺がひきこもりがちであり、図鑑とにらめっこするし、
”男の子らしくない ”<=母から見てだ
図鑑を見て、何かを真似て描く俺って・・・ 母親は混乱したのかもしれない。
もちろん、外に出て遊ぶことはあったし、砂場で牛乳瓶に砂と水を入れて、”コーヒー牛乳”を制作していた。
不思議と楽しみよりも企業だなと、そんな感じの体感があった。
自分なりに”しゃちょうごっこ”していたらしい><。
何か人と違うことをする。そんな怒りが俺にあった。ソースは父親だ!!!
父はなんか人と違うことをする。ふーん。それがいいのかな?
母は人と同じことをしなさいみたな説教を垂れる。俺の中で両親の教育バトルがあったのさ。
自由人vs自分=皆 そんな葛藤がまだ出る。
父と母の家庭背景が激突。 なんで、こんな結婚ができたのか? 今になると、この対立している背景が、うまくリンクして動いている。わお!だ。
お金にかかわることだったのだ。俺が一生懸命に時間を費やした研究をわかりやすく母に話してきた。時間にして7年。
やっと、父も母も一緒に経理をするようになった。どんぶり勘定を改める動きになった。
俺自身もこのどんぶり勘定になりやすい。封筒におおざっぱにわけるけど、無断で(誰にだろう?)
買い物に行くときにはペナルティーがある。 最低限の費用で今できる選択で遊びの費用を使うことだ。
お金は減る。総量が減る。ごはん代が無くなる。その中で健全な遊びの選択を罰とする。
遊ばないのはよくないが、費用をちゃんと計算して出す遊びを自分に課す。
かなりの負担になるし(心が)。だが、思い切ってその”自己破産ぷれい”をすると、
また、母の実家の文化が壊れる。母というよりも母の実家の文化がだらしない管理主義だったのだ。
うちの母の口癖は(最近は減った) 「うちは貧乏だ」
本当の貧乏は使えるお金が30円で、一週間を乗り切って俺は知ったけど。
パンの耳作戦。 知らないおばあさんになすをおくれさくせん。いづれも直接交渉だった。
10円でパンの耳を得たり、日ごろ、たまに見かけたおばあさんに、頭を下げて、
「なすを分けてください。料理したいの。」 (さすがに、相手は怖がったけど、事情を察してくれた)
=>2004年の8月のはなし。
この体験自体はトラウマだよ。それくらいに、生活感覚が荒廃していて、生きる体感が妄想的だったのだ。
その後、両親と知り合いの以前に世話になった、俺の家事の先生が来て、
「生活保護に入れ! お前はもう改心しないと先が無いぞ。」
と、どういうコネで交渉したかは謎(2012年に持病で他界されました))
その後、両親と自分とこの先生と役場にいき、その前に家賃だけもらってきてくれた。
本当にまずい状態だった。 今でもなんか怖い体験を無感覚で通過したなと。
その体験自体も癒さないといけない。
今はこう書いて皆さんに晒すことで馬鹿なことをしているけど、
恥をさらして、さらに誰かに知られるのはぼくの中の祈りの気持ちを知ってほしいの。
安易に入るとのことははっきりいって今入って苦しんでいる人と、行政にものすごい負担なの。
毎回、お金をもらうときにそんな空気がある。俺もその空気で気がおかしくなる。いくら、散歩で鍛えた体も、耐え難きを耐えに耐えるのは困難になっているの。
この単語が俺はがっこで読んでショックでした。それくらいに戦争の時はそうだったのでしょう。
ね。俺は受けた教育で読み書きができる。また、人に伝える勇気を奮える。だけど・・・
知ってほしいの。苦しくなると、働かないでお金が欲しいとなるの。
それは俺もあった。借金地獄からもがき、そんな夢想をした。
でもね、実際は人と関わることで得るものなの。信頼と何らかの身元保証がいるの。
うちの父はまじめすぎるまじめで、大変な額の返済を遂げつつあったことと、家族にまじめすぎたゆえに、
そして、今になって書くけど、事実上、後見人になってくれた、先生とがそろって、
俺は受けることができた。
そんな援助があってこそ受けれた。燃え尽きていたあの当時はわけがわからない感じでした。
なんで、働かないでお金が来るのか?
3年くらい経って、やっと生活保護を受けたと感じるようになった。
借金地獄と両親の経済面の余裕のなさは、生きる実感とお金をちゃんと使う、管理する感覚を壊していたんだ。
今でもそのトラウマはある。計画してお金を数え、予算を組むときに。
毎日、癖で日割り計算をする。
これは入院中に覚えた。
トラウマです。自己管理のトラウマ。
なんでもかんでも自分。
それはやりすぎると認知症になる。
だから、俺は無理にでも電話する。
一人暮らしは自分で自分をあやめる考えが出て、変におかしくなることがある。
だから、そのためのものは持ったほうがいい。
俺が散歩を自分に矯正した背景は、無理に這い出て、ひきこもりで死にそうになったあの恐怖を、
その中で計算して、スーパーの閉まる直前の安い弁当を何とか選んでレジを通り、その弁当で生き返った体験が大きい。
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