★きらら 自分から出る声を聴こう ★

2011年7月11日月曜日

極限ドライブNOW                      今、限界が無いと知った

朝からうるさいブロガーが来てるよん♪


タイトルを引っ張りつつも意味合いを変える勢いだ。


確かに俺はうつだ。


そう書くと、

宇宙は、

「そのとおり。確かにあんたはうつね^^:」

と返す。


ひねりが無い。


間違いなく、俺のほうがひねりがある。

「そのとおり」=>宇宙


俺は元気だよん♪

「そのとおり」=>宇宙


この繰り返しなのだ。


今、ここで宣言すること。


まわりはまわりの現実映像であり、俺の人生と全然関係が無い。

「確かにそのとおり」

^^;

限界なんて無いのが極限なのさ。


そんな心理状態を知っているなら、やがて体験するだろう。


人生は奇跡ばかりで喜びばかりで、常にあらゆる面で富んでいるし、


人生の飛躍にたくさんの下準備を病気として体験したのだと。


もう、要らないね、病気。


ぽいっ!!!

「そのとおり」

ニール・ドナルド・ウォルシュ~「神さまの言葉:その通り!」



真実です。

ニール・ドナルド・ウォルシュ~「神さまよりしあわせ♪♪♪」



応援上げ。

追記:

こんなブログにはまるくらいなら、

とっとと朝飯くいなよ。

終わり。

涼宮ハルヒの憂鬱.2期OP.「Super.Driver」1080P Full HD Haruhi Suzumiya




俺が神との対話(自己との対話)で知った真実は、

自分の好みを追及していいとのことだった。


自分らしさはその探求と決断と現実感のあるライブな日常にたくさん部分的に存在する。


それを再選択し、自分で統合。そして融合。


それを毎日やるのが俺の人生だ。


悩みはそんな生き方を誰が理解するのかと悩むことだ。


明らかに異端だ。一般社会からすれば。


本質のおいては同じだ。誰も。


そんな話で今日は終わり。


これでも俺を先生と感じるなら反省せよ。


単なるとっぽいにいちゃんに先生はきつい。


らくがきなんだよ。


これも。

「神との対話」 全米公開映画 予告編

それでも神は本を買えとつっついた。

宗教を辞めて数年経つ。

自分のしたいことを追い求め、自分探しに没頭してきた。

宗教から精神科へ軸足が移り、そこでの対人関係でもっと学ばないといけなかった。


ただ、一部の精神科に関して言えば、病院内が村社会であり、軽めの現代風の宗教に見えた。


両方の共通項は心と精神と魂、そして偉い人に救われたいとの願望を騙しの形か何らかの形で

”満たされる”ことだろう^^:


どっちもそこの村社会の概念に傾倒するなら確実にうつ病は悪化するし、その悪化をサポートする

世話好きなおばちゃんやうっとおしいうつ病の先輩方。思い出すと何か逆の意味で先輩と感じる。


そして、嫌いだった精神科医で起業家の言葉がよぎる。


「うつ病はあなたの考え方のせいだ。それをやめれば治る」




ずっと前に依存した精神科医の言葉だ。今になって現実味を帯びる



そんなさなかにまたぎょっとしたことが来る。


そう神だ。


お金は余裕があった。

立ち読みは習慣だ。本屋には迷惑だ。

でも実行していた・・・

 

神はコミック版で俺に真実を告げる。

人間の考えた概念の神はいないと。


まあ、お読みなさい。


自分が何らかの形の人間が創造した神に依存したので苦しいのだと知るだろう。


この大元の神らしきユーモアの存在は俺のかたを優しく突っついたのだ。

神嫌い

朝からの一発目は俺が宗教をやる前に無心論者であり、科学信望者だったことを話したいと思う。


幼稚園に入園して以来、たくさんの出来事を体験し、小さな心の状態で”悲劇”を体験してきた。


大打撃でまだ残っていると感じるのが大好きだった幼稚園の女の先生の”裏切り”事件だ。


ただでさえ、お母さんから離れたくない時期の4歳。わけのわからない理由を母親から聞かされ、

私立の幼稚園へ”連行”された。


今の観点で書くと社会、いやお金持ちの息子の親の社会観や見栄の思考の犠牲と感じるんだ。

普通に皆がしているように幼稚園無しで、小学校へ行ければ良かったなと感じる。


そうだよ、俺は元ボンボンだ。だが、そのボンボン時代はあっけなく大事件に巻き込まれ空中分解

する。

10歳にしてボンボンから貧乏な下請け社長の長男というエレベーターが上に行っていたのにドカーーーーーーーんと、


1階を通り越し地下4階まで一気に落っこちた体験がある。


入院も悲劇だったが、あそこはまだ部分的な天国だった^^¥


こんな体験があるからこそ、また母が精神世界にはまりがちだったので、

”神様”への関心が冷たい観点での関心はできた。


そして、高校で行きたい?ゲーム製作会社で面接で落ち、


全然関係のない自転車の問屋さんでバイト(母の知り合いの紹介)に行くことになる。


そんなバイトへ道へ転がる前に、”親切そうなお兄さん牧師”がなんか家に来た。

世間知らずであることと、”来た人の話はすべて聞く”との母の態度の影響で”聞いて”しまい、


知らない間に信者に”された”。


この独特の神様を崇拝する団体のEはやたら集まりを開き、個別訪問し、

宗教とはおよそ関係のない機関誌を”売る”


そんな荒行を13年して、”神はいない、神は俺を救わない、むしろ人はえぐい”と悟る。


この団体を奇跡的に脱会(ネットの脱会体験者の方法であっさり辞めれた)し、


脱宗教者を自称している。


こうして俺は神嫌いで数学や物理学を崇拝している。


気づかないだろうか?


どっちも人が考えた概念だ。




人の思考なのだ。




他人の。




俺のオリジナルの思考ではない。


そう気づいてぎょっとした。


どっちに転んでも何かを崇拝することで人は耐えている。


これが依頼心であり、依存心なのだ。


つまり、○○教は○○という概念を崇拝する生き方 = その概念に依存する生き方

なんだ。


入信までの過程に育った家庭でのしつけや受けた学校教育、生育環境の影響は大きい。


俺はいじめられっ子だったが、(のちにインテリヤクザ風の男になるきっかけ)


それが全て人のせいだと思っていた。


いや、俺の生活態度や生活への現実味の無い選択がいじめを呼んだ。


つまり、やはりキーは俺の人生観だったのだ。


惨めな人生を味わった俺を神は一切助けなかった。


入信したらよりいっそう助けなかった。


崇拝した概念はうつ病を強化し、不信や対人恐怖、宗教者の裏の顔を見て、恐怖する。


宗教者のエライサンの家庭は機能不全どころか完全に壊れていた。たくさんの支部が日本にあった

が、

その3つほど仕事の都合で出張し、3つ顔出して、それぞれ半年以上関わったので、


この宗教が神ではなくその支部のえらいさんを崇拝する団体だと理解し、愕然・・・


これがキリスト教系の有名な団体の実体か。 声も出なくなった。


そして知った。

キリストや神の名前を借りて、信者から遠慮なくお金を取る団体がキリスト教。

それを理解し、寄付を止めた。


この段階で神嫌いになった。


つーか、宗教概念上の神はどこにも存在しない。

ニーチェ風に言うと、

「神は死んだ」

俺風に言うと 元からそんな意地悪な神なんか存在していない。


存在しているのは意地悪を楽しむ人とその教え、後は強力な組織力。

宗教が強力ないじめ団体だと理解できるだろう。

俺の解釈だよ。

あなたにとって宗教が救いならそれを許せばいい。


まあ、これが2011年の7月11日、月曜日の俺なりの訓話。

一発目だ。





その