★きらら 自分から出る声を聴こう ★

2013年8月3日土曜日

真実一路

自分はマジでやる気あんのか?

毎回、ブログを書く前に自身の反応に試される。

お金儲けがどうのこうの。

ここで書いて晒しても何の金銭的な利益は無いのだ。

だが、財布の中身と関係なく、動ける実感は大きい。

誰だって、経済的な余裕があればと考える。

俺の場合はお金の使い方を器用に変える。

どん底は今。人のお金で生きる実感はある意味拘束だ。

自分で他に収入の道を開いても、うんともすんとも言わない。

間違っているのか?

やり方が悪いのか?

それとも忍耐を貫く時なのか。

どっちにしても、やりくり次第でどんな立場も地獄と天国の差が生まれると思う。

気持ちの面で甘えがあれば、大金を掴んでも苦しいだろうなと思う。

切り詰めると無駄が多いと自分の生活を見て感じる。

また、与えるって何だっと思う。

2008年からの生活だ。ブロガーは。

真実とは何か?

小学生のころから自問している。

やったことが帰ってくる。

大半は過去の想いとそれに対する自分の気持ちというものだ。

今の自分は過去の集大成ですと何かの本のあったな。

俺は毎回、集大成を書いている。

苦しい。何度も自分の中の飢餓感を感じて思う。

飢餓感。

何に飢えているのだ?

切り詰めれば本当にわずかでも家にすべて必要なものをあるので(今までの人生で多くの人に

援助され、分不相応の所持品を貰っている。なぜ来たのか?将来への引き寄せ(無意識に)

だった)

人生って驚きのシーンがある。メンターってなんだ?俺はその知識を得る前にいたし、

親父殿やおふくろ殿や弟、妹、俺を虐めた奴、俺が虐めた奴。

他にもいろいろとバイトを転々としたフリーター時代にすごいと感じる奴がトイレで嘆いたひとこととか、

振り返るとたくさんの思い出がある。

人で努力していない奴はいないだろう。

引きこもり時代にすごく人が怖くて、外に行くと悪く言われるとの妄想は今でも出る。

解消法はあの苦しみ脱出の瞬間を思い出すことだ。

人はお金が無くても、十分でなくてもお金を払わないといけないと感じる瞬間がある。

俺はあの時は1000円しかなかった。しにそうに腹減り、近所にはスーパーがある。

部屋は掃除していなかった。服は臭い。目はうつろ。

まずい。

危機感を感じ、ドアを開けた。

久しぶりの空気が感じいい。

ふらつく足でスーパーへ行く。

確か時間は8時手前。

スーパーが閉まるころだ。

弁当売り場は半額とかシールが貼ってある。

500円くらいの弁当をもっと安く買ったのだ!

レジを通るときに怖かった俺はどこか安心感と自信に気づいていた。

レジのおねいさんも怖かったが、現実に相対すると優しかった。

借金苦。ひきこもり。 それは自分の動きでいったん、安心感を得た。

その後、飯を食ってから電話し、実家で飯とお金の援助を受けた。

動き。

真実はどん底でどう感じ、どう動くか。

それで自分の中の妄想や幻想を打ち砕くときに、人生の厳しさって自分が勝手に作るのだなと思うだ。

人は優しいよ。

自分が変に自分に厳しいのだ。

お金が無いとお金が無い時の思い出が出る。

これが毎度、見てくれよと叫ぶのだ!

もう、この思い出に浸る必要はない。

立場が違う。

思考も違う。

やりくりは相当な経験を積んでいる。

どん底でも何かする。

自信が無いなら自信を思い出す。

うつなら目の前のことをする。固い思考が柔らかくなる。

選択肢が起動する。

うかぶ。

お金はありがたいが、それが来る前に一定のルーチンがある。

自己を見つめ、自身の力を確認するワーク。

その後、来るお金に感謝できる。

お金の流れはある。

今必要な額だ。

それから何かを生もうと思う。

生き金。

お金とは信託物と習った。

入って出る。

単にそれだけものだ。

出すタイミングはおかしいと困窮する。

でも、無くても手持ちの食料でなんとかなる。

意外にお金でなく、それ以外の活用で困窮は無いと知る。

どこまで俺の過去の記憶はしつこいのか。