★きらら 自分から出る声を聴こう ★

2014年3月19日水曜日

いじめいじめられの関係にフォーカスする

 知識を得ても放って置く。

そんな先生方の指導を直接や、本で受けました。

その知識で親や他の皆さんの生き様を検証したり、

その情報で自分にフィードバックしたり。

それを返すとかしましたが、

結局は疎まれました。


 正論は正論でしかないと。

 無理だと。


頭を抱え、両親に話し、

「その人の立場上の発現かもな^^:」

と父はそう返してくれた。かなり前だが。



 いじめる


 俺もやったのだよ。


 小学生のときとか。かなり陰険なことを。


 だが、その癖が抜けないのが嬉しく、怒り、また破壊的でもあった。

 この癖が、対人関係をおかしなものとかねじるとかする。


 感じる感触が無い。無感覚だ。相手のことを人として認識ができない。


 小学生のときの癖が、調子悪いときに出ている。



大人なのでそれを補正しようとする。ちょうどピントのずれた画像に意図的にレタッチするみたいな。

書くことは確かに自分の中のプロ意識がある。

それすら、奢りだと思い返す。

完全は無いとか言うけどさ、直さない自分もいる。

直さないで自身の癖を、俺なりの社会性だと思い込む。

傍若無人。

そっけない。

性格がねこだね (ある人に言われた。これもかなり前の話だ))

淡々と何かできる。

その力も続けると、振り返る俺自身が・・・ あれ? これは俺なのかと考え込んでしまう。


悩む。

何をしても何かしてしまい、遂げるけど、それが俺だと思うのに距離と再認識がいる。

だめでずたぼろな自分。

これがいつもあるので、自信なんて、無いと感じるほうが多く、たまに思い返して、あああるな。

でも・・・ この俺を認識してみてくれる人の存在のおかげで、俺はこの社会に認識され、

それを自分で認識するのだな。

発想がコンピューターと言うおかしな俺。

しかし、おれなのだ。

このあたりに俺の自分への あの孤独でうつうつとした俺が今でも何か考え込んでいる。


あまりにも空気が違うので、クラスの友達は、

(これは、こいつのためにならない)

と、

最初は距離をとりながらやんわり。

それに俺が応じないと、

いじめという形で応じてきた。

それくらい、俺はクラスと和する力があるはずなのに使うことを拒んできた。

不器用だけど、できるのにしない。

それは一番最後に、いじめを正面からくらい、未成年でビールを一気飲みすることでなんとか入れた。

最後の最後で。

あれが、俺にとって、やっとクラスメイトになれた儀式だったんだ。