★きらら 自分から出る声を聴こう ★

2011年6月5日日曜日

障害あっても自分は自分です

 もう、通院をさぼっているので、(反抗心)


あえて、感じたことを書いて、自分の表現したい。


何かに依存した状態は港に入った船だと感じる。


船は港ごと出ることが出来ない。船は独立した存在で、港はメンテナンスのための存在だ。


つまり、関係性は一時的であり、必要が無ければ捨てる。


病院はそんな立ち位置だ。


いずれ、人生から消える運命。


ずっと、ブログを書いていて、自立稼動していると、収益が他のサイドビジネスで出だしているが、


自分の目的に沿って、紙に書き出したり、それを感じてみると、


休息の時間が甘くなる。


事業の本体の収益は0だ。


だが、PCの先生などの収益が臨時ではいる。


全体を事業に連結させると収益が0ではない。


日頃の散歩で感じる感覚も無収益だが、ヒントやアイデアの手がかりとなる。


事業を起こすと止まらない。


かっぱえべせんなのだ。


だから、今は仕事中毒だろうな。


昔のあるものたちへの復讐だから。



俺の自分らしく自由に生きることへの恨みや嫉妬を露にしたものどもへの復讐だ。



その結果、体が痛い。


愛はどうして、変質するのだろう。


こんな復讐に意味が無いのに。


宗教内の対人関係はPTSDになる、


その解消で怒りがたくさん出る。


誰も人のしたいことに障害や邪魔をしてはいけない。


それをする人たちには独特の価値観がある。


人を虐めるのが愛だと。


俺はそんな傾向を持つが、自分を裁いてしまう。


自虐だ。


これは愛とは逆。


自分すら裁かず、感じるままに生きて、自分の歌を自分で歌う。


自分なりに愛を歌う。


人と違っていい。


愛は愛でも個性が帯びる。


それでいい。